「あきらめたらそこで試合終了」は本当なのか。
「あきらめたらそこで試合終了だよ」これはスラムダンクに出てくる言葉みたいですね。
諦めたら試合終了。つまりは、そこでもう何もかもが終わってしまう。だから諦めちゃいけない。そういう言葉ですね。
でも、そんなにあきらめることというのは悪いことなのでしょうか。
わたしは敢えて、あきらめることの良い側面を考えてみたいと思います。
■我々の最も大きな弱点は、諦めることにある。成功するための最も確かな方法は、常にもう一度だけ挑戦してみることだ。
これはトーマス・エジソンの言葉です。
あきらめることは人間の大きな弱点。
おなじように、松下幸之助も、次のような言葉をのこしています。
「世にいう失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまうところに原因があるように思われる。最後の最後まで諦めてはいけない。」
諦めてしまうから、失敗してしまう。
西洋でも東洋でも、同じようなことが言われてるんですねー。
■もう、あきらめよう
ここでズバリ言います。もっと、あきらめましょう。
あきらめることが悪いのは、そこで何もかも終わりにしてしまうからだと、わたしは思います。
ここでいう「あきらめ」は、いわば「失敗」ですね。
物事を単に「失敗」として終わらせてしまう。それでは確かに、あきらめることは良くないことと思います。
でも、こう考えてみてはどうでしょう。
■あきらめるからこそ、次に進める。
ケンタッキーフライドチキンのカーネルサンダースが、自分のレシピを売り込みに行ったときに1009軒の店に断られたけど、1010軒目の店で、採用された。
こういった話を耳にしたこと、ありませんか?
そうやって採用されたレシピが、今のケンタッキーフライドチキンチェーンになっているので、人生何があるかわからないものです。
「あれ?だから、あきらめなかったからうまく行ったんでしょ?」
確かにそういう側面もありますが、見方を変えると、ひとつのお店で断られて、そこで諦めて次に行ったからこそ、うまく行ったわけですよね?
「なんだよ、それって屁理屈じゃん」とおもわれるかもしれません。
でも、ものは考えようです。
■コミュ障、口下手
先日、知人と話していたときのことなのですが、わたしも知人も「懇親会」のような場が苦手なんですね。
集団の中にいると、誰と何をどうやって話していいのかがわからなくなるんです。
知人は「なんとかうまく立ち回れるようになりたい」と言っていたのですが、わたしはそういう自分に対し、実は「あきらめ」を持っています。
もちろんこれまでの30数年の人生のなかで、試行錯誤してきましたよ。でもどうしても、誰彼かまわず気軽に話ができる人のようにはなれませんでした。
「あーぁ、あの人が羨ましい。ほんっとにオレは情けない。なんでうまく人と話が出来ないんだろう。」
こんな考えで、自分に自信なんて持てませんでした。
「どうせオレはコミュ障で、人とうまく話ができないからダメなんだ」と自分をおとしめて卑屈になってしまえば、すでに書いたように「失敗」だと思います。
でも「コミュ障だけど、それはそれで仕方ない。」とわりきってその場にいるとか、そのとき出来そうなことをしていればいいんじゃないでしょうか。
■良いあきらめと悪いあきらめ
出来ないものを「出来ない」とあきらめる。
なにも、努力もしないで出来ないことをすぐに諦めていいということを言っているのではありません。
ただ、どうしたって他人にはなれませんし、個性の違いってものがあります。他の人がどんなに素晴らしく見えたって、その人とまったく同じようにはなれません。
ならばムリなことはいっそあきらめて、自分自身のできるところ、いいところに目を向けて、そこを伸ばしていけばいいじゃないですか。
これは逆説的ですが、長い目でみればあきらめていないことになりますね。
人生、やり直しがきかないものも確かにありますが、やり直しがきくものだってたくさんあります。
どこにあきらめて、どこにあきらめないか。その加減が大切なんじゃないでしょうか。
■まとめ
あきらめには良いものと悪いものとがあります。
短期的にみて、あきらめて終わりにしてしまうのは悪いあきらめ。
長期的にみて、目の前のことはあきらめても、できることをやっていくのは良いあきらめ。
わたしはこう考えています。
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タグ:あきらめたらそこで試合終了, 名言, 諦観
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